着物の雑学②

このコーナーではきものにまつわる雑学をご紹介していきます。
きものから生まれたことわざや習慣は身のまわりにたくさん。
その意味を知り、ルーツをたどることで、きものがより身近な存在になるのではないでしょうか。

着物の雑学②
衣といった言葉が使われる言葉、装うものに関する雑学

~衣といった言葉が使われる言葉~

天衣無縫(てんいむほう)

「天衣無縫」は中国の故事が元になっています。天から舞い降りてきた美女(仙女)と親しくなった青年は、彼女の衣服に縫い目がないことに気づきます。尋ねてみると「着る人間の体に合わせて布が自然に衣服となるから縫い目はない」と仙女は答えます。天衣に縫い目がなく、人工的な跡がないところから、文章や詩歌などに手を加えた跡がなく、自然で美しくかつ完全である様子をあらわします。現在では人柄にも用いられ、「ありのままで飾り気のない人」として、天真爛漫(てんしんらんまん)と同じような意味に使われます。

衣替え

もともと宮中の行事として平安時代に始まった衣替え。旧暦の4月1日と10月1日に行われていたもので「更衣」と呼ばれていました。天皇の着替えの役割をする女官の職も更衣と呼んだため、後に天皇の寝所に奉仕する女御を指すようになり、庶民の間では衣替えというようになりました。現在、きものの世界では6月1日~9月30日までは単衣(ひとえ)という裏地のないものを、10月1日~5月31日までは袷(あわせ)という裏地のあるものを着用します。特に夏の暑い時期(7月1日~8月31日)には薄物といわれる透けた素材のきものを着ます。

濡れ衣を着る

濡れ衣は、平安時代ごろから無実の罪、根も葉もない噂などの意味で使われるようになりました。語源にはさまざまな説がありますが、ある昔話もそのひとつです。継母が先妻の娘の美しさを妬んで漁師の濡れた衣を娘の枕元に置いたところ、父が娘と漁師の関係を誤解して娘を殺してしまいました。娘は翌年、父の枕元に現れ「濡れ衣の 袖よりつたう 涙こそ 無き名を流す ためしなりけれ」という和歌を詠んだことが伝えられています。現在は娘を供養する「濡衣塚」(福岡市博多区)が建てられています。

解衣推食(かいいすいしょく)

自分の着ているものを脱いで着せ、自分の食べ物をすすめて食べさせること。ここから転じて、人に恩を施す、人を深く思いやることのたとえ。また、人を重用することにも使われるようになりました。中国、前漢の武帝の時代、司馬遷によって編纂された歴史書『史記』の中に記述が見られます。

衣帯不解(いたいふかい)

衣帯とは着物と帯。衣帯解かずと読み、衣服を着替えることもせず不眠不休で仕事に熱中することをいいます。広く、あることに非常に専念することを意味するようになりました。 不解衣帯(ふかいいたい)ともいいます。

衣錦之栄(いきんのえい)

故郷に錦を飾る(出世した姿を故郷の人に見せること)と似た言葉で、錦の着物を着て故郷に帰る名誉のことをいいます。錦は金や銀の糸を織り込んだ絹織物のことで、非常に高価な着物であることから、成功して帰る場合に使いました。

~装うものに関する雑学~

いただくものは夏も小袖

小袖は絹の綿入れのことを指し、冬に使うものでした。それでも、いただけるものであればすぐに役立たなくても何でももらいましょうという意味で、欲の深いことのたとえとして使います。また、「もらうものは夏も小袖」も同じ意味で使います。ちなみに、小袖に対して木綿の綿入れのことは「布子」といいました。

お召(おめし)

現在では、呼び寄せる、乗る、着るなどを意味する尊敬語として「お召になる」という言葉が使われています。もともとは、御召縮緬(おめしちりめん)の略で、11代将軍徳川家斉が気に入り、西陣で織る縞縮緬がつくられ、将軍がお召しになったことから「お召」と呼ばれるようになったといわれています。
通常、縮緬は白生地で、後から染め加工をしますが、お召は糸を染めてから織る先染めの織物です。

大袈裟

本来、僧侶が法衣にかける「袈裟」に「大」がついたものが「大袈裟」で、大きな袈裟のことをいいました。もともとは、粗末な布でできたものを使っていましたが、中国や日本で官僧として認められるようになると、権威をひけらかすような派手なものへとなっていきました。大きな袈裟を着て必要以上に誇張したことを言う僧侶も登場し、必要以上に大きいことを「大袈裟」と言うようになりました。

着物姿でサービスします

1950年代、とある航空会社の国際線のファーストクラスではフライトアテンダントが着物でサービスにあたっていました。着替えるのは狭い機内のトイレの中、しかも数分間という短い時間だったので、着物は上下別々のセパレート、帯は後ろの部分の結びがはじめから出来上がっていて、お腹に巻いてマジックテープでくっつけるだけのものでした。短い時間であわてて狭いトイレで着替えるので、上の部分と下の部分の合わせ(右前、左前)が違っていたり、足袋と草履を履くのを忘れハイヒールで機内を歩いてしまったりということもあったそうです。

裃(かみしも)を脱ぐ

裃は上着と袴から成る、江戸時代の武士の礼装でした。そのため「裃を脱ぐ」は、堅苦しい態度をやめて、気楽に打ち解けることを意味するようになりました。反対に、「裃を着る」ことは礼儀正しいことを意味します。
ちなみに、裃は明治維新後に廃止され、男性の礼装は紋付・羽織袴となります。

法被(はっぴ)と半纏(はんてん)

裃は上着と袴から成る、江戸時代の武士の礼装でした。そのため「裃を脱ぐ」は、堅苦しい態度をやめて、気楽に打ち解けることを意味するようになりました。反対に、「裃を着る」ことは礼儀正しいことを意味します。
ちなみに、裃は明治維新後に廃止され、男性の礼装は紋付・羽織袴となります。

馬子にも衣裳

馬子とは、荷物や人を馬で運んでいた職業の人のことで、うまかた、うまおいともいいます。普段はきれいな格好をしていない馬子でも、髪型や服装を整えて着飾ると立派に見えることを「馬子にも衣裳」というようになりました。おてんばな女の子がきものを着ると見違えるように見え、周りの人から冷やかしで言われることもあります。

留袖

もともと、小袖は留袖の形をとっていましたが、幼児の着物は体温を外に出すために身八つ口を開けるようになりました。これを脇明小袖と呼びました。すなわち、振袖のことです。成人式には、この身八つ口を留めることから「留袖」と呼ぶようになりました。江戸時代末期には袖丈の変化や帯幅が広くなるなど、形がかわったものの「留袖」という名はそのまま現在にも引き継がれています。

普段着

表立った場面で着るよそゆきの「晴着」に対して「ケ着」ともいい、日常家庭で着用する着物のことを「普段着」といいました。封建時代の庶民は、仕事着が普段着で、機能的には晴着よりも優れたものでした。今でも、「普段着」というと、家庭着・家着・日常着などともいわれ、家で着ている衣服を指します。

羽織(はおり)

きものの上に着る丈の短い衣のこと。安土桃山時代、防寒のために鎧の上から着た「陣羽織」が日常でも着られるようになったことが羽織の始まりでした。そのため、長い間男性のきものとされ、女性が着用を許されたのは明治時代になってからのことでした。また、羽織の語源は上着を着ることなどに使う「はおる」が変化したものであるといわれています。

白無垢鉄火(しろむくてっか)

表面は上品でおとなしく見えるが、実はたちが悪くあくどいことをいいます。男女に使う言葉ですが、現在はあまり使われなくなっています。「鉄火肌」は気質が荒々しく勇み肌であることを意味し、多くは女性についていう言葉でした。同じ意味の言葉に、「羽織ごろ※」があります。
※羽織を着たごろつき(一定の住所や職業を持たず、あちらこちらを歩いては他人の弱みにつけこんでゆすり、嫌がらせなどを働く悪者)の意。

喪服

現在、日本で黒は悲しみを表現する色として、葬式などで黒い服を着ることが定着していますが、もともとはおめでたい色でした。結婚式で親族の既婚女性が黒留袖を着ることにその名残が残っています。なお、「喪服」という呼び方は女性用の黒紋付を指していったもので、男性用は慶弔両用のため厳密には喪服とはいいません。

馬子にどてら

馬子は、馬に荷物などを載せて運ぶことを仕事とする人。どてらは、厚く綿を入れた防寒のための着物のことで、馬子にはどてらが似合うということを意味します。転じて、分相応であることのたとえ。

道行き(みちゆき)

もともと、お出かけの道中で使われた、額縁のような小襟がついた襟が開いた和服用コート。現在は、袷の半コートや防水加工がされた単の長いコートが一般的です。道行きコート、道行きぶりなどとも呼ばれています。道を行くことのほかに、旅をすることも「道行き」といわれます。

三十振袖四十島田

30歳になっても振袖を着たり、40歳になっても島田を結ったりすることから、年配の女性が年齢不相応な若い服装や化粧をすることをいいます。特に、年を重ねた芸者などが若づくりをすることをあざけって言うのに使いました。
※島田=日本髪において最も一般的な女髷(まげ)。特に未婚女性や遊女などが多く結んだ。

紺屋(こうや)の白袴

「紺屋」とは染物屋のことで、もとは藍で布を紺色に染める仕事をさしました。この言葉は染物を専門としている人が、自分のものは染めることをしないでほったらかしにすることをいいます。「医者の不養生」と同じ意味ですね。ほかに、約束の期限や時間はあてにならないという意味の「紺屋の明後日」という言葉も。紺屋の仕事は天候に左右されるため、仕上がりが遅れがちだったことから由来しているそうです。

割烹着

和服姿で日本髪を結った人も多かった明治時代、日本で最初の西洋料理の教授を開始した赤堀割烹教場(現在の赤堀学園)で、腕と身体をすっぽり包む料理着が愛用されました。これが割烹着の始まりです。きものの袂がおさまる袖幅、袖丈があり袖口をゴムでしぼったエプロン形式のもので、袖を気にすることなく調理ができ、汚れまで防いでくれるため、さまざまな料理法とともに全国に広まっていきました。

ちゃんちゃんこ

袖なしの羽織。綿入れが多いことも特徴です。なぜ「ちゃんちゃんこ」と呼ばれるようになったのか、様々な説がありますが、一番よく使われるのは、袖がないため用事がしやすい、すなわち「ちゃんちゃんと用事ができる」からといわれています。